■読書会[alterna +]#12 のお知らせ■
◎今回読む本:内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』
(文春新書・2006年刊・1,800円)
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◎日時:2025年11月7日(金)18:00~20:30
*開場17:45
(終了後、懇親会を予定しています~22:30頃まで)
◎場所:chez alterna
〈シェアリングスペース〉シェ・オルタナ
東京都中野区松が丘1-17-12
▶西武新宿線/新井薬師駅北口より・徒歩3分
▶中央線/中野駅南口・関東バス「0番のりば」より
【中12】江古田駅行
【中41】江古田駅行
▷降車バス停:上高田中通り(シェ・オルタナまで徒歩2分)
[地図URL]https://www.google.com/maps/place/@35.7178942,139.6727638,15z/data=!4m6!3m5!1s0x6018f3a2d32c819d:0xba07850bfe0d4818!8m2!3d35.7178942!4d139.6727638!16s%2Fg%2F11j7yxvkv3?entry=ttu
◎参加費:〈オフラインとオンラインで異なります〉
★オフライン(chez alterna 店舗での)参加の方
*Facebookのイベントページ「読書会[alterna +]12」から「参加予定」とお知らせください。
↓
https://fb.me/e/cbobonpQX
*当日、参加費2,000円(ワンドリンク付き)を会場でお支払いください。
*読書会後の懇親会では安価なキャッシュオンにて懇親会費を承ります。
★オンライン(Zoom)参加の方
*このPeatix経由でチケット購入をお願いします(参加費1,500円)。
*なお、Peatixでオンライン(Zoom)参加チケットを購入された方には、上記URLのFacebookグループ「読書会[alterna +]#12」を通じて、当日午前中にZoomミーティングURLをお伝えします。
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【主催者より】“お誘いの言葉”(いささか長い招待メッセージ)
◆まずは2つの言葉から。
「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」──。
「人はユダヤ人に生まれるのではない、ユダヤ人に作られるのだ」──。
前者は超がつくほどよく知られたボーボワールの古典的名言です。そして、後者はボーボワールの思想的盟友であり、終生のパートナーでもあったサルトルがユダヤ人問題について言及したメッセージです(まぁ、いずれも、いささか大げさな物言いですがw)。
きわめて似かよった語の配列を持つこの2つの言葉には、大多数の人間が疑うこともなく現実と思い込んでいる事物や概念の大半は、人類史の中で自然に生成されたのではなく、時代時代における人々の認識や社会的な相互作用によって「結果として“作られてきたもの”にすぎない」という、社会構築主義の考え方が込められています。
例えば、性差、人種、民族、国民、国家などといった概念や事物は、知らず知らずのうちに人間の心身にイデオロギーとして浸潤し、脳内に定着させられた制度的概念にすぎないと、ボーボワールもサルトルも考えるのです。
ボーボワールの場合は、その著書『第二の性』の中で、実社会においてリアルな「女」のあり様に如何ともしがたく張り付いている「概念としての女」について、先駆的なジェンダー論の文脈において批判的に言及しました。
一方、「ユダヤ人問題」についてのサルトルの言葉には、「反ユダヤ主義には確固とした理由がある」という言説には全く根拠などない、したがって「ユダヤ人迫害はすべきでない」と言う批判的メッセージ性が含まれます。まさに社会構築主義の立場からの正当な表明です。
しかし、この主張は「政治的に正しい」にもかかわらず、歴史的に省みても、そして今日に至るまで、いわゆる「ユダヤ人問題」には何の実効的な解決ももたらしませんでした(「ジェンダー問題」については、100年以上の年月をかけて、ほんの少しながらの進展が見えつつありますが)。
一般にいわゆる“差別者”と見られる人物や集団に対する批判・非難の言葉は、例えば「差別はイカン、ヘイトクライムは邪悪だ」という“正しさ=correctness”からの異論や反論の形を採ります。
しかし、自分たちの陣営が携える“正しさ”に支えられた(かのように見える)明示的議論(デノテーション)だけを異論としてぶつけても、相手はその意味をなど理解できず、また当然のように自分たちの言葉や態度を変えることもせず、むしろ身を固くして増長するのが常です。
当然ながら、どのような差別も迫害も“悪”であり“愚行”なのですが、差別・迫害する側と差別・迫害される側との間にあると言葉使用の含意(コノテーション)が全く食い違っているのですから、そこには必然的に乗り越えがたい“障壁”が立ち現れてしまいます。
いま世界中で見られるこの必然的・構造的な“障壁”を乗り越える困難さを充分理解しつつ、内田氏はそれでも千年以上にわたり特にヨーロッパ世界を覆ってきたアポリア(行き詰まり問題)の一つ、「ユダヤ人問題」への接近を試みます。
◆「一つ次元を繰り上げた問題設定」について
ただし、そこで採用されるのは、「一つ次元を繰り上げた問題設定」という変則的な方法です。
本書から2点だけ引用してみます。
内田氏による問いの立て方の仕掛けはこうです。
★ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。…
★「反ユダヤ主義には理由がある」ということと、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある」ということは似ているようだけれど、問題の設定されている次元が違う。
その問いは「人間がそこ知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いにも置き換えることができる。…
どうでしょう、内田氏による「一つ次元を繰り上げた問題設定」の仕組みが見えてくるでしょうか?
「わかりづらい」ですよね。w
◆「ユダヤ人は何ではないか?」という逆定義から
しかし内田氏、その独特の「わかりづらさ」を随所に散りばめながら、旧約聖書の時代から時空を貫き通してきた「ユダヤ人問題」を独自の「文化論」として仕立てていきます。
内田氏はつづけます。
ユダヤ人とは、「国民国家の構成員」ではなく、「人種」でもなく、「ユダヤ教という宗教共同体のメンバー」のことでもない「何か」だ、と。
この「ユダヤ人定義」は、一見してわかるように、決して合理的な概念理解をするためのまっすぐな方法ではありません。「ユダヤ人は何ではないか?」という逆定義による概念理解です。
内田氏はまた、この逆定義は、「語義を定義することがむずかしい語の意味の境界線を確定するため」の唯一の「共通基盤」として、“さしあたり”読者の前に立てられる本書への導入的理解として有効だともいいます。
とはいえ、「国民」や「国民国家」という実はフィクショナルな概念(まさに社会構築的な概念)しか知らず、当たり前のように「国民」と「国民国家」という制度としての概念に馴らされてきた私たちいわゆる“日本人”にとって、旧約聖書の時代からヨーロッパ世界を中心に醸成されてきた「ユダヤ人という概念」(それはユダヤ人自らが実は能動的に得てきたものでもあります)の複雑性と唯一性とを理解することは決して容易ではないかもしれません。
とするなら、本書に記されたユダヤ人についての(“すこぶる”付きにわかりづらい!)テキスト理解を通して、自分たちの生きる世界のあり様を体感する前提となるのは、次のような“構え”で「読む」ということではないかと思います。
自分と世界、そして他者とのトータルな関係理解を深めるために、「国民名ではない」、「人種ではない」、「ユダヤ教徒ではない」という逆定義によるデノテーション(明示性)を手始めとして、このユダヤ人の逆定義に“影”のように張り付いているコノテーション(含意性)を読み解くということ──。
複雑さに塗れた「ユダヤ人問題」の探求とともに、「わかりづらさ」の解読という「脳の筋トレ」を楽しみたい(愉しみたい)人にとって、本書は極めて濃厚な読書経験をもたらす一冊になるでしょう。
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今日この国で散見される排外主義的・差別主義的な言葉や動きの愚かさ狭量さを見極め、そして事実の丁寧な理解の姿勢を欠落させた著しく雑駁な陰謀論の浅はかさを見切るためにも、本書が最適なテキストの一つになるだろうことを付記しておきます。
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